新・相対論、番外編

エッセイ1 残された時間

 

 

例えば…病室で死にそうな老人と一人の若者がいたとする
その老人は科学が好きで宇宙の姿を知りたいとずーっと思っていた
既に手遅れの状態であと3日が限度だと医者は言う
老人は若者にこう話し掛けた

「わしは子供の頃から科学が好きでな、宇宙の姿を追いかけるのが夢じゃった。
だから科学を信じ、証拠に基づく正しさを重要視してきた
だが、今の科学はわしに宇宙の姿を教えてはくれない
いつか科学は宇宙の姿を証拠に基づいて記してくれるだろう
だがわしの命は後三日、わしはその姿を知ることなく死ぬのだ
わしは、夢を叶えられなかった…」
それを聞いて若者はこう言った

「おじいちゃん、確かに今の科学では宇宙の姿を教えてくれない
閉じた宇宙、平坦な宇宙、開いた宇宙など色々候補はあるけれど
今観測している宇宙がマスター宇宙なのか子供宇宙なのか孫宇宙なのかすら分からない
ビッグバンは未だに謎だ。何しろ証拠が足りないからだ
でもおじいちゃん、証拠は無いけど矛盾が無い宇宙の姿は教えられるよ
すこしぼんやりしているけど宇宙の形、ビッグバンを説明出来る。知りたい?」
「教えてくれ」
「証拠は無いよ、科学的には認められない理論だよ、それでもいい?」
「構わん、科学がわしの夢を叶えてくれぬならわしはそれでも構わん、教えてくれ」
若者は「新・相対論」を老人に教えた

そして最後にこう嘘を付け加えた
「この理論は証拠が無い、科学的ではない、議論の対象にすらならない
でも僕はこの宇宙が真実の宇宙の姿だと信じれる、証拠が無くても信じれるよ」
それを聞いておじいちゃんはニコリと笑う
「お前が信じるならこの宇宙は嘘ではないはずだ、わしも信じれる
ありがとう、わしは夢を叶える事ができた、科学と共に生きれて幸せだった…」

お涙ちょうだいの作り話
でももしあなたが若者の立場ならどうします?
まさかこんな事↓を言いますか?

「おじいちゃん、実は宇宙の姿を説明した理論があるんだ
その理論は矛盾が見当たらない。でも証拠が無いし細部もいい加減
とても科学的に正しいと信じる気にはならない妄想だ
そんないい加減な宇宙論を科学が好きなおじいちゃんに教える訳にはいかないんだ
科学は証拠が大切。だから教えられない。諦めて。
でも、大丈夫!おじいちゃんの寿命は後3日あるよ
その3日の間に科学はどんどん進歩して宇宙の姿を着き止める証拠を見つけるかもしれない
それを待とうよ、まだ3日もあるんだ。科学の正しさを信じよう!」

かなり極端ではありますが笑い話にはなりますね
さて、問題はこれから始まるのです
私たちは今「若者」の立場なのでしょうか?それとも「老人」の立場なのでしょうか?
私の寿命は長くて100年短くて30年程度です
そして恐らくあなたもほぼ同様であると推測します
あと100年で科学は宇宙の姿の証拠を集められるでしょうか?
100年でかなり進歩する事は間違いないです。でもマスター宇宙の姿までは無理だと思います
99.9%無理でしょう


と言う事は後3日で死ぬ老人も、後100年で死ぬ我々も同じ立場と言えませんか?
科学は人類と共に生き続けますが、私やあなたは永遠でない。タイムリミットがあります
だから私たちには証拠に拘らない宇宙の姿が必要なのです
老人の満足な気持ちは私たち自身の未来を写しています
証拠がないからと言って無視をしていると死ぬ時に悔いが残るのです

科学的正しさだけを持つのではなく、創造的正しさも持つ
その二つをもって何がいけないのでしょう?
頭の中で足して2で割ればそこそこ満足のいく宇宙の姿が描けます
あなたはどうしますか?科学的正しさの一つだけで良いのですか?
私は欲張りです。だから二つ共正しさとして求めます
死ぬ瞬間だけでなく今満足したいです
そして科学の進歩に伴い証拠が増えていくでしょう
その都度創造的正しさも修正を行い、常に最新の宇宙の姿を維持します
たとえ早くに寿命を迎えようと宇宙の姿という夢は果せます

人間にとって最後に必要なのは「証拠」ではなく「満足」です
「新・相対論」、冥土の土産にお一つ如何ですか?